2023/7/10

仕事とその他がドタバタしてめんどう~。なぜ仕事はないのに僕は忙しくしているのか。

最近はちまちまニューロマンサー封神演義(漫画の方)を読んでる。

突然だけど、ここに「性能劣化が起こるけど原因を調べることができる計算機」と「性能劣化が確率的に起こって原因追求は困難な計算機」があったとする。さて、人々が求める計算機はどちらだろうか。9割方、原因がわかるほうの計算機を欲すると思う。残念ながらこれは間違いで、僕らが本当に欲しているのは「性能劣化が確率的に起こって原因追求は困難な計算機」である。ここに「説明をしたい」という人間の欲望がボトルネックになっているという現実がある。

そもそも、両者は実は同じ現実を言い換えているに過ぎない。例えばDRAMのビットは低い確率で反転するのでデータが壊れる可能性は常にある。SSDは書き込み回数の上限があり、それ以上の書き込みで破損する可能性はあるが、それがいつかは分からない。計算機は何もしなくても壊れる。

となれば説明が可能となるだけその計算機は余分にリソースを使っている。なんで壊れたかを、ここの要素に分解して検討できる計算機は「個々の要素に分解できる」だけ、連結部分を工夫しなければいけない。それを取っ払い「なんかよくわからないけど結果が得られる」計算機はその連結部分を柔軟に構築できるので相対的に性能を改善できる。

そして説明ができるだけ、マクロな視点でも僕らはリソースを支払う。例えばコンピュータのディスクが破損したら、ユーザはシステム運用者に「何故壊れたんだ」と激詰めするかもしれない。しかし、一定の確率で破損しうることを考えれば激詰めすることもされることも畢竟時間の無駄である。では、「性能劣化が確率的に起こって原因追求は困難な計算機」で破損が起こったらどうだろうか? 一定の確率で破損するのであれば、それに対応するのは使用者の責任になる(嫌なら使うべきではないので)。激詰めされても「そういうものです」で終わりになる。ここに説明という行為の問題が存在する。

「原因が分からなければ性能の改善もできないじゃないか」という意見はあるだろう。残念ながらこれは若干誤っているのである。進歩とは原因が分かることではなく、トライアンドエラーを繰り返すことなので、原因が完全に判明することは要件ではない。原因を追求することは大切だが、それより試すことが重要であり、原因の追求は必要条件ではない。

そう、僕らは言語を必要とするが計算機に言語は要らない。「説明」のコストを計算機からいかに取っ払うかが、きっと21世紀の計算機アーキテクチャの研究目標になるだろう。そして、きっと説明が極めて困難な爆誕したとき、僕たちインフラストラクチャに関わるエンジニアはいなくなるのだ。22世紀のエンジニアは現代のLinux本を見て、怪訝な顔をするに違いない。その頃には僕らとは全く違うアプローチによって計算機を手懐けているのだろう。

なので、22世紀には絶対にこの仕事が存在しない。そう確信できるところが、計算機システムのいいところだと思う。Linux の本を読むと、こんなピタゴラスイッチがあと100年も存在するとは思えないと誰もが思うはずだ。歴史のくずかごに放り込まれることが運命づけられたソースコードが作るバベルの塔だ。

では、僕らが「説明」を必要とする限り人類はムーアの法則に敗北し続けるだろうけれど、「説明」がほとんど不可能な計算機が作り出す世界は良い世界だろうか? Stable Diffusion を巡る一連の騒動が示す通り、きっと絶え間ない混乱をもたらすだろう。人々は言語の世界に生きているのであり、言語を必要としない計算機の世界とは隔絶しているのだから。

ライザのアトリエ

無印だけしかやっていない。調合システムと戦闘システムに慣れなくてラスボス倒してないんだけど、話としては特に無く、個別キャラルート(的なもの)が失われたせいで仲間キャラが配置としての機能しか持っていなくて魅力がなくて厳しい。